すまいるくらそ

シニアの日常の暮らしと出来事

ゆとりを得るためには犠牲が伴う

ブログの登場人物 
管理人=彩葉
夫=ポン助 
高齢父親=海坊主 
長男=唆義史 
次男=輔駒史
 
今日は午前中、海坊主の整形外科。
早く終わったので
天気も良く
どこかへ行きたいというので
ドライブがてら道の駅に行って来ました。
 
車椅子が置いてあって良かった。
公園の広場を車椅子押しながら散歩。
 
足にサロンパス貼っていたので
足湯はあきらめましたが
海坊主の喜んだ幸せな顔を見て
私も嬉しくなりました。
 
私の両親は会社員で共稼ぎでしたし
日曜、祝日以外は一日も休まず働いてきました。
おかげで年金も標準で受給できています。
世代別不公平感といわれていますが
そのおかげで親を養うこともなく
救われてることもあるのです。
孫への入学祝いやお年玉もありました。
 
ところがもう年金だけでは
生活できないレベルにあるとしたら
介護施設への経済的負担も
背負うことになっていくでしょうし
結局、親の年金が減っていくということは
こどもにも やがては
しわ寄せがくるってことです。
 
核家族化が進み
おのおの別々に暮らすようになれば
経済的負担が増すのは当然であって
 
煩わしいのは嫌
自由になりたい
自分の時間もほしいけど経済的ゆとりも欲しい。
そんな都合のいいことばかりは続きません。
 
何かを犠牲にしなければ対価を得ることは
難しいのではないのかと思います。
 
親子といえども人間関係が生じます。
血が繋がってるだけに感情部分は複雑です。
人生も大きく左右されてしまった人も
見てきました。
 
依存っていけないことなのでしょうか。
家族間のことでネガティブな意味で
よく使ってる人がいます。
精神科療法士の方の記事を読んだ時
胸がスーッとしました。
人であったりモノであったり多くのものに依存して
はじめて生活が成り立っている
 
 
私もそう思います。
ひとりで生きてるようで実はひとりでは
生きていないんですよ。
 
いろんな方に依存され、依存し
それが活力になる人もいます。
 
 
最後に
癌で亡くなった叔父のひとりは
意識のあるうちに「じゃあ、さようなら。」と
笑顔で別れを告げたそうです。
自分は幸せだったという
後に残された家族のための
思いやりと感謝の笑顔だったのかも知れません。
 
自分もそうでありたいなと思います。
 
 
道の駅で農家さんの野菜を買いました。
スーパーよりも安くて新鮮。
大根・かぶ・わらび・ピーマン・赤たまねぎ
きゅうり・水菜